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越後長岡7万4千

越後長岡藩7万4千石

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長岡藩は、越後国の古志郡全域及び三島郡北東部、
蒲原郡西部(現在の新潟県中越地方の北部から下越地方の西部)を治めた藩。
現在の新潟県長岡市・新潟市を支配領域に含む藩であった。
山城長岡藩と区別するため、越後長岡藩と国名を冠して呼ばれることもある。

歴代藩主

堀(ほり)家

外様80,000石(1616~1618)

  1. 直寄(なおより)

牧野(まきの)家

譜代74,000石(1618年~1870年)

  1. 1616~1655駿河守 忠成(ただなり)
  2. 1655~1674飛騨守 忠成(ただなり)先代の名を継ぐ(嫡孫承祖)
  3. 1674~1721駿河守 忠辰(ただとき)
  4. 1721~1735駿河守 忠寿(ただかず)
  5. 1735~1746土佐守 忠周(ただちか)
  6. 1746~1748駿河守 忠敬(ただたか)
  7. 1748~1755駿河守 忠利(ただとし)
  8. 1755~1766駿河守 忠寛(ただひろ)
  9. 1766~1831備前守 忠精(ただきよ)
  10. 1831~1858備前守 忠雅(ただまさ)
  11. 1858~1867備前守 忠恭(ただゆき)
  12. 1867~1868駿河守 忠訓(ただくに)
  13. 1868~1870    忠毅(ただかつ)

藩庁は長岡城(長岡市)

藩主は初めに堀氏(80,000石)、のちに牧野氏に交替した。
牧野氏の家格は帝鑑間詰めの譜代大名で、石高は初め62,000石、
後に加増されて74,000石になった。
正徳2年(1712年)の内高は約115,300石、安政元年(1858年)には
約142,700石あった。
戊辰戦争で奥羽越列藩同盟側で敗北した為24,000石に減封となり。
明治3年(1870年)に廃藩となった。

沿革

越後長岡藩の中心領域となった現在の長岡城には、江戸時代初期には
蔵王堂藩が存在していたが断絶し、高田藩領となっていた。

元和2年(1616年)、高田藩主松平忠輝は大阪における不始末から
除封されると、外様大名の堀直寄が80,000石をもって古志郡の
旧蔵王堂藩領に入封した。
直寄は蔵王堂城が信濃川に面して洪水に弱いことから、
その南にあって信濃川からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に新たに築城、
城下町を移して長岡藩を立藩した。
直寄は2年後の元和4年(1618年)には越後村上に移され、
代わって譜代大名の牧野忠成(ただなり)が長岡藩50,000石より、
長岡へ62,000石に加増の上で入封する。
牧野氏は堀氏ら外様大名の多い越後を中央部において抑える役割を委ねられ、元和6年(1620年)には1万石加増、次いで寛永2年(1625年)に
将軍秀忠より知行74,000石余の朱印状を交付された。

その後、長岡城と城下の拡充・整備及び領内の田地の改良・新墾田開発をすすめ、
藩領の新潟湊に新潟町奉行をおいて管理、これを基点とする上方との北前船の物流を活用して藩経済は確立された。
知行実高は表高を遥かに上回るようになり、新潟湊の運上金収入もあいまって藩は豊かになった。
その後は次第に諸経費が増加する一方で年貢収納率は逆に低下したために藩財政はひっ迫し始め、また9代忠精(ただきよ)以降は藩主の老中・京都所司代への任用が増えて藩の経費もかさみ、さらに天保年間に新潟湊が幕領として上知され、その一方で軍事費の増強の必要性が高まると財政問題は根本的解決が迫られた。
その結果、幕末の家老 河井継之助(つぎのすけ)の藩政改革の断行へ進むことになった。
しかし、改革半ばにして明治維新の動乱に接し、徳川氏処罰反対の立場をとる長岡藩は戊辰戦争に巻き込まれ、慶応4年5月(1868年新暦6月)河井の主導のもと、奥羽越列藩同盟に参加を決定、同盟軍側(東軍)として、
長州藩・薩摩藩を中心とする維新政府軍(西軍)に抗戦したが敗北した。
明治元年12月22日(新暦1869年2月3日)に赦免されて24,000石(牧野氏)で復活、間もなく財政窮乏などの理由で藩主牧野忠毅(ただかつ)は明治3年10月22日(1870年11月15日)に城知を返上して柏崎県に併合され、長岡藩は廃藩となった。

藩風

藩風は藩祖以来の「常在戦場」「鼻は欠くとも義理欠くな」「武士の義理、士の一分を立てよ」「武士の魂は清水で洗へ」等の『参集牛窪之壁書』や「頭をはられても、はりても恥辱のこと」「武功の位を知らずして少しの義に自慢する事」等の『侍の恥辱十七箇条』と呼ばれた条目を常の武士の心がけとしてかかげ、質朴剛健な三河武士の精神を鼓吹するものである。
明治初めごの藩政再建中に小林虎三郎が、越後長岡藩の窮乏を見かねた支藩の三根山藩から贈られた米百俵を教育費にあてたという「米百俵の精神」もこのような藩風とともに生まれ、その後も長岡人の気風として受け継がれている。

藩主牧野氏

藩主牧野氏の先祖は室町・戦国期の東三河地方の牛窪城主牧野氏であったとされ、
初代長岡藩主忠成の祖父成定以前の牧野氏については諸説があるが、
戦国大名今川氏に属して松平氏(徳川氏)とは対立した。
成定の代に徳川家康家臣・酒井忠次配下の東三河衆として徳川軍に所属し、
そのまま家康の関東移封に随従して天正18年(1590年)群馬県前橋市東部となる
上野国大胡藩2万石の藩主、元和2年(1616年)越後長峰藩5万石藩主を経て
元和4年(1618年)越後国長岡に入封した。
以後明治の廃藩まで250年間封地を動かず長岡藩主として連綿した。

江戸藩邸及び江戸における菩提寺

江戸武監上において元文6年(1741年)頃の江戸藩邸は上屋敷は西ノ窪、
中屋敷は愛宕の下、下屋敷は薬師堂前と渋谷の2か所であった。
しかし江戸時代後期以降、江戸藩邸は、所在地移転や藩邸数増減があり、
慶応2年(1866年)頃には上屋敷は呉服橋内に、中屋敷は愛宕の下と呉服橋内に、下屋敷は深川に2か所(浄心寺前、平井町)と渋谷にあったと記載されている。
また、藩主一族や家臣が江戸で死去した際に使用した菩提寺は忠寿(ただかず)死去以降から、
牧野忠成と念無上人が開基である三田台町の浄土宗寺院の済海寺に固定化する。

悠久山・蒼柴(あおし)神社

長岡藩の精神的支柱として建立され、今年で231年。
長岡市民から「御山(おやま)」親しまれ、さくらの名所としても知られる悠久山。
御山を登って、まず目に付くのが江戸中期の天明元年(1781年)に建立された蒼紫神社だ。
長岡藩の4代藩主・牧野忠寿(ただかず)が、藩の基礎を固めた、
前代の忠辰(ただとき)を祭ったのが始まりで、社殿は日光東照宮を模した権現造り。
北越戊辰戦争、長岡大空襲の戦火からも免れ、当時の荘厳な姿を今に伝えている。
社殿脇には、牧野家の2代から11代までの藩主、1族の墓碑17基が並んでいる。
昭和58年に牧野家の菩提寺、東京・三田の済海寺から移築。
東京・池上の本門寺に祭られた忠辰の墓碑も平成7年に蒼紫大明神として移築され、歴代藩主の墓石が全て揃った。見事な五輪塔が周囲を圧倒する。

一帯には、戊辰戦争で官軍と戦った長岡藩の河井継之助、
「米百俵」の小林虎三郎など先人の石碑、
山頂には長岡の歴史を紹介する城造りの郷土資料館もある。
雪国の遅い春で、約2,500本といわれるソメイヨシノなどは今が見ごろ。
神社では5月18日に長岡藩主、藩士の招魂祭が行われ、藩ゆかりの人が全国から集まります。
かつて藩士が行き来した表参道は延長600m。
すり減った石段にサクラが舞い散る。
太平洋戦争中、パプアニューギニアで戦死した藩ゆかりの山本五十六元帥は里帰りの際、
実家に向かうより先に石段を踏みしめ参拝したという。

幕末・維新期の長岡藩

幕末には河井継之助が郡奉行に就任したのを機に、それ以後、藩政改革を行って窮乏する藩財政の立て直しをはかるとともに、兵制を改革してフランス軍に範を取った近代的軍隊を設立した。
1868年、戊辰戦争が起こり藩論が佐幕か恭順かで二分すると、家老に就任した河井継之助は藩主の信任のもと恭順派を抑える一方、佐幕派にも自重を求め、藩論の決定権を掌中に収めた。
さらに、新政府軍からの献金・出兵要請を黙止し、会津藩などからの協力要請に対しても明言を避け、中立状態を維持した。
新政府軍が小千谷に迫ると、河井継之助は陣地に赴き、平和的解決のための調停役を願い出た。
しかし密偵などの情報により長岡藩を会津藩とみなしていた新政府軍は、
これを詭策(きさく)と判断し、一蹴した(小千谷会談)
会談が決裂したため、ここにきて藩論を戦守と定め、奥羽列藩同盟に加わり
新政府軍との戦闘を開始した(北越戦争)。
激戦の末、陥落した長岡城を一時は奪還したものの、火力・兵員共に圧倒的に上回る新政府軍に押されて再び陥落し、領民や藩士たちは会津へと落ち延びた。

長岡藩は多くの戦死者(309人が有力)を出した。
これは会津藩23万石(内高40万石強)、仙台藩62万石(内高100万石)、二本松藩10万石(内高14万石)に次ぐ戦死者で、藩の規模・戦闘員の員数を考えると、長岡藩7万4000石(内高14万石)も犠牲は大きなものであった(藩の実際の実力は、表高ではわからず内高が重要である。)
北越戦争の勝敗を決した要因の一つとして、新発田藩・溝口氏の裏切りがあげられる。
そのため、長岡士族の家では、新発田には娘を嫁にやらないという因習が長くのこるなど、
長岡の新発田に対する怨念は薩摩・長州以上のものとなったと言われている。
降伏した長岡藩は再興を認められたものの、5万石没収されて24,000石となり、
財政的に窮乏を極めた。
藩は北越戦争で壊滅的な被害を受けた上、食糧不足まで起こったが、
大参事小林虎三郎や三島徳次郎が復興に尽力した。
またこのとき、江戸藩邸にいた後の大審院・小林藹の公用人日記が藩の立場を物語っている。
結局、全国的な廃藩置県に1年先立って1870年に長岡藩は廃藩、柏崎県に編入された。
1873年には柏崎県と新潟県が統合され、新潟県の一分となる。
藩主の牧野家は華族に列し、子爵を与えられた。
維新前最後の藩主の弟にあたる牧野忠篤子爵は、
1906年に長岡に市制が施行された際に初代市長になっている。

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